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空風 海月

Author:空風 海月
空風海月の日記です。
私の生き様が、考えが、誰かの役に立てばいいな、なんて思っています。

もっとみんなが気兼ねなく幸せになれて、楽しく生きていける世界が作れたらいいのにな、と思っています。
そのために私に、誰に何が出来るのかについても、僭越ながら書いていきたいと思っています。

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日々。
最近は外出することが多く、なかなか更新が出来なかったりしています。
飲みに行くことも多いので、頭がちゃんと回っていなかったりするんです。苦笑
そんな中ですごく痛感しているのは、動いた分だけ世界は変わるんだな、ということです。外に出てみるだけで、いろんなものに出会えます。人に話しかけられることもありますし。
その時に出会ったものが、実は結構大きな意味を持っていたりもして。
「これはどういうことだ?神様?」みたいな、RPGの世界を冒険してるつもりで日々を過ごしていくと、結構いろいろなものが意味あるものに見え、いとおしく感じたりします。
…厨二病だとか言わないw

生きる意味とか、そういうものは結局分かりませんし、多分ないと思っています。
もし生きる意味があるのだとしたら、亡くなった方は「意味がなくなったから」死んだということになりますよね。それって、なんか嫌だな…と思います。
意味はないけれど、まぁ意味を作りだすことは出来るし、生きてるのもそんなに悪くないかな…と思えるのなら、何をしていてでも、生きていればそれで良いんだと思います。
「やりたいことをやるために生きている」だとか、「使命があるから」だとか、まぁいろんな生きる理由はありますが…これも、ないんだろうなーと思っています。
やりたいことやるために生きてるなら、私こんなに苦労してないし。もし使命があるなら、早く露呈させてくれた方が、みんな納得して頑張れるだろうし。

かつて自殺志願者で、毎日死ぬことしか考えていなかった私ですが、今はなんとなく毎日を楽しいような気分で生きています。
それでいいんだと思っています。多分。
とにかく、行動することが一番大事なんだろうな、と今は思っています。
しんどかったら外に出れないんですけどね。そういう時は、ゆっくり休むか「生きる意味、理由」を真剣に考えればいいと思います。それだけでも、十分生きているということですから。
今日もまた、就活ちょっと無視して(オイ 遊んでこようと思います。就活なぁ…働くって、難しい。。

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日記 | 10:45:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
すべきこと。
「すべきこと」とされるようなことを、カナリ放置していました。
そのせいか…なんかもう、頭の中でも部屋の中でも毒素が溜まっているような、そんな感覚に襲われています。
やっぱり、出来る限り先延ばしはしない方がよさそうです。。ちゃんと計画立てて、順序良くすべきこと(やりたくはないけれどw)をやりこなす、というのは精神衛生上もよろしいみたいです。

重い腰を起こして、とりあえず少し、すべきことを片づけました。
学生という身分で、しかも就活というものを依然としてしている私は、未来に頼むしかない(=今すぐ結果わからない!しんどい…)という状態がずっと続いています。
その中でも、卒論だとか、確実にしなきゃいけないことはやっていくべきだよなぁ…と今更ながら、少しやる気が出てきました。

不思議な事に、少しだけ計画を立てたら、なんだか何でも出来るような錯覚に陥りました。
計画って大事。改めて思いました。
未来に託すしかないことはたくさんあるのですが…その中でも、未来に何を託したいのか、それを少しは考えてみる必要があるようです。
ざくっと、10年後にどうしていたいか、のように。
10年後とか…私結婚して子どもいるかもしれないじゃないか…男性みたいに簡単に計画立てられないじゃないか…
予定は未定。その感じで、なんとなくやっていくしかありませんね。。

日記 | 17:54:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
芸術家。
最近、すべての人が芸術家、アーティストではないかと思っています。
歌を歌ったり、絵を描いたりして作品を生み出す人達は、まごうことなきアーティストですが、
それらの作品を見聞きして感動する人達も、アーティストだと思います。
そういう観客がいるからこそ、俗に言うアーティスト達は励まされ、創作意欲を燃やして、また新しい作品を生み出すのですから。アーティストを励ます力をもつ、アーティストではないでしょうか。

もっと皆が恥ずかしがらずに、いろんなことを発言したり、作ったりできる社会ならいいのになと思っています。
例えば絵であれば、線と円だけでも立派な作品になります。現代アートという括りになるのかもしれません。
綺麗な配色の美しい絵と対照的に、秩序もなにもない配色であっても、それは例えば、サイケデリックアートだったりします。
誰かに認めてもらうために描く絵なら、確かに上手下手はあるのかもしれません。認めてもらうということは、相手を何かしら楽しませて、お金という対価をもらうことになりますから。
でも、そうではなく、ただ表現することに意味があるんじゃないかなと私は考えています。
その人にしか見えないものを、そのまま描いた絵が一番素敵です。
理解されなくても(お金にならなくても)、自分が気楽になるような、心の荷物を降ろせるような作品。楽しく描いた作品。そういう絵が私は好きです。


お金ではない価値。それが今、資本主義に反してなんとなく広がりつつある気がします。
でも、まだこれだけでは生きていけない社会でもあります。
ここから先、どうなっていくのかなとわくわくしながらも、ここで「なるようになるさ」と思いこみ過ぎて、何も出来なくなってしまうのは恐ろしいなと感じています。
自分の身はやはり自分で守らなきゃいけないんですよね。誰かが支えてくれることがあったとしても、最後は自分なんです。何事においても。

私はどうやら感性が敏感なようで、小さな事に幸せを見出す反面、小さな事で深く傷つくことも多くあります。
アーティスト気質なのかもなと思っています。勝手に。笑
私は、言葉や絵を通じて、日々の小さな美しさを表現して、伝えていければいいなと思っています。仕事にはならないかもしれませんが、私に出来る、小さな芸術活動です。
きっと、そういう感性をもった人達はたくさんいると思います。お金じゃなく、そういうものを表現できる場がもっと広がればいいのになと思います。

思考 | 17:42:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
井戸。
ふと思い出したので、小学5年生ぐらいに書いていた小説を引っ張り出して読んでみました。
思えば私は、幼い頃から話を作って絵を描いて、文章化して…というのが好きでした。想像力を掻き立てるものは、恐らく文章や絵だったのだろうと思います。
音楽も好きですが、音楽は楽譜をなぞったり曲を聴いたり、どちらかというと型にはまったことをしてしまいます。曲を作るのは私には難しいようです。アレンジも。出来たらいいなぁ。。

小学生の書いた小説だし、まぁ…話に矛盾もあるだろうし、笑いをこらえるのに必死かな。最後にあぁ私も若かったなぁ…と思うかなと思っていたのですが…
この小学生、何者だ。話に矛盾がないじゃないか。
その頃読んでいた本に影響されている部分は多くありますが、とはいえ、起承転結をちゃんとまとめていました。よくあるファンタジー系の物語を2本執筆していましたが、どちらもちゃんとまとまっていました。ファンタジーなのに、大きな矛盾を出してないとか…どういうことなの…。
とはいえ、小学生ですし、荒削り感はたくさんありました。情景描写は割と上手なのですが(これにも驚きました。少ない言葉でちゃんと表わしてるなんて…)、心理描写はまだまだ甘いというか。
語彙と経験が少ない以上仕方なのない部分はあるんですが、それにしも、読み手に感情を想像させるような文章でした。

自画自賛もいいところだ…と思うんですが、実はこれ、他人にも読んでもらった感想でもあります。
私は小さい頃、もしかしてすごい創造性と想像力に溢れていたのかな…?今もその源流は枯れていないかな…?と、忘れられた井戸を見つけ出したような気分でした。
小学生~中学生の時には漫画も描いていたので、黒歴史を見るのは結構キツイんですが(笑)、自分の生きてきた道を辿ってみるのもいいかもなと思っています。
思っている以上に話もまとまってるし…訳わからないものではないので、恐らくダメージは少ないはずです、多分…。


この井戸からはまだ、綺麗な水が湧いているのでしょうか。それとも、使われなくなった井戸の宿命のように、苔が生え淀んだ水がゆらゆら漂っているだけなのでしょうか。
井戸を守る人はいるのでしょうか。私が井戸から離れてしまったことに、井戸の守は泣いて寂しがったのでしょうか。だとしたら、今もう一度、彼に会いに行く方が良いのかもしれません。
なんとなく、井戸から湧き出る水をくみ出して、誰かに与えていた時期が、一番私が私として輝いていたように感じるんです。
惜しげもなく、恥ずかしげもなく、自分の作ったものを見せていた、俗に言う「黒歴史」の時期。あの時、私は想像力に満ち満ちて、欠乏感もなく、毎日をcreateしていた気がします。
今のように、何か足りない、いや多いのか?という思いに苛まれ、何も手につかなくなるような日はほとんどありませんでした。


小学5年生の私の書いた言葉。
ある本で見たという、〈世界で一番確かな物はなんだ〉という問いに対し、主人公は少し思いだすまでに時間はかかりましたが、「自分」と答えていました。
恐らく本当にある本で読んで、よく分からないけど印象に残ったことを、私の物語の主人公を試す問いとして使ったのでしょう。
当時から十数年経った私に問うてみて、私は、「自分」という答えをちゃんと出せるかどうか…少し自信がありません。

ただ、今自分の中に枯れかけている、もう枯れたのかもしれない井戸を再発見したのは事実で、それは確かなことなのかなと考えています。
発見した井戸から水が湧いていないとしても、綺麗に掃除してあげたいなと思います。

日記 | 13:28:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
躁。
謎の躁状態になってます。簡単に言えば、眠れません。なんか楽しくて。
やるべきことは何一つ出来ないまま、本の虫になっています。
このままでいいのかな。不安なのに、本読んだり映画観たりしか出来ません。
それ以外のものが、疎ましくて仕方ないんです。苦笑

逃げてるのはわかっています。
でも、わくわくするんです。読書や芸術作品に触れるのが、すごく楽しいんです。
私も絵本描こうかなと思っています。就活しろ、という…

文書を書いていると、少し落ち着いたみたいで眠くなってきました。
脳内で文字が氾濫している時は、書き出すと良いのかもしれません。眠れぬ夜の、戯れ言です。

日記 | 02:18:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
日々。
毎日いろんなことがあります。
私は基本的に鬱状態な人間なので、基本的に生きているのはしんどいです。何のために生きる?という問いには、依然として答えられずにいます。

生きていたい?
という問いに、私はYESと答えられません。
なら、死にたい?
これにも、YESとは答えられません。
どちらか決めなきゃいけないよ。
急かすような声が、自分の中からも外からも聞こえてきます。

他人の役に立たないのなら生きている必要はない。
その感覚がいつからか、私には染みついていました。
そして今、私は他人の役に立っているのか。立ちたいような、立たないのなら死ねばいいやというような。


就職活動というものを私は今しています。大学生なのです。
ですが、消費を拡大するために「不安」や「焦り」を用いるという戦法が、どうしても好きになれません。
だってもう、これ以上何が欲しいんですか。たくさんの便利なものに満ち溢れていて、何が必要だというのですか。食べ物ぐらいじゃないでしょうか、日々作っていかなければならないものって。
インフラを支える仕事は素敵だなと思いますが、インフラの裏には汚い金の匂いが漂っていて、それも嫌です。
嫌な事ばかりですね。本当に。

本当に必要なものを、必要な時に注文して作って、購入する。
少し経済の速度は落ちますが、そういう経済でいいと思います。無駄に作る事なんてない。無駄なんだから。
速いれば速いほどいいという経済の在り方に、そろそろ限界が来てるんじゃないかと私は思っています。
大量生産大量消費。それによって失われたものは、恐らく、本当のものの価値というものではないでしょうか。
本当のものの価値。自分にとって必要か不必要化を選択し、必要なものを大事にして、不必要なものは誰か必要とする人に渡す。そんな、ものの価値です。
皆と同じものを持つ必要なんてないんです。だって、必要なものって人によって違うから。時期によっても違うから。
その人に適したものを、適した価格で適したルートで売る。そういうのが、商売なんじゃないかなぁと、学生風情が僭越ながら考えています。

日記 | 11:25:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
疑問。
私は幼い頃から、様々なことに疑問を抱きながら生きてきました。
文学、科学、思考、人体、生命、政治、経済、法律、哲学、知覚… 多岐に渡って、様々なものが不思議でわからないものばかりです。
勉強不足だから分からないのかもしれません。もっともっと本を読むべきだな…と思います。
が、私が「大人」にそれらの疑問をぶつけた時、いつも答えは返ってきませんでした。
「そんなものだよ」「そういうことになってるんだよ」「仕方ないよ」
分からないのに、何でそのままにしていられるのか…私はそれが分かりませんでした。

未だに私は、日々疑問を抱いて生きています。
例えば昨日なら、そこにいるだけで雰囲気が和むような人は、どんな人でどんな話し方や行動をしているのだろうか、ということでした。
それに対しては、多分、その人が本当の意味で他人を愛して受け入れているからだろう、と結論づけました。
今日なら、何でふと目に入る言葉が人によって違うのか。
意識していれば目に入りやすいようですが、全く意識してなかったのに、ふと目を止めてしまう時もあります。この違いは、何なんでしょうか。


次々に浮かんでくる、なぜ?という子どもみたいな疑問が、私の大部分を占めています。
というか多分、私は子どもなんだろうと思います。だからこそ、「社会」にうまくなじめていません。過剰適応することによってしか、私は社会性を発揮できていません。
でも、この感性を潰すような生き方はしたくないな、と昔から思っています。
感受性を壊して、心も感情も壊してしまうくらいなら、もう変人でも奇人でもいいかなって。
だって私は、世界を本気で美しいと思っているから。その美しさを知らない方々に、もし美しさを伝えられるなら、こんな考え方をしている奴もいるんだと思って、その人の世界が広がって行くのなら。
そのためなら、変人道を追求していきたいと思います。

絵を描いて、表現できるようになりたいな。
刹那的で見失ってしまいそうになるような美しさを、紙面上にコピー出来たらいいのに。
これを自己顕示欲というのでしょうか。うむむ、また疑問の始まりです。

海月

思考 | 01:16:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
過去の整理。
これを書きたくて、またブログを始めたと言っても過言ではないので…記念すべき最初の記事は「過去の整理」について。

過去って、それが嫌なものであればある程、臭いものにフタをするような行動をしてしまうんですよね。
だって、辛いんだもの。もう見たくないし、聞きたくもない。
でも、そういう辛い過去ほど、嫌味なぐらい自分に残っています。もういいって、と思うぐらい苦しめてきます。
何故なのか、私は理由が掴めた気がします。

臭いものにフタをして、ずっとフタし続けようとするから、中身が発酵して、新たに無駄な毒が生まれるからなんです。

過去自体に実はそんなに害はなくて、その「過去」にフタをして、自分に都合良いように解釈しようとし続けるから、辛くなるんです。
要するに、過去の出来事をそのまま見ずに、忘れよう忘れようとして、様々に自分に言い訳し続けることが辛いんです。


例えば。
小さい頃に苛々していたからという理不尽な理由で友達を殴って、しかも謝らなかった。
そういう小さな事に対して、「だって苛々させるようなことを友達がしたからだ」という言い訳をし続けて、謝らずにいたとします。
こういう嘘が、実は自分を一番苦しめているんです。
それを解消するためには、ただありのまま、「小さい頃に苛々してたからって友達殴った。謝らなかった」という事実を受け止めること、それだけでいいんです。
そして、もし可能なら、その友達に「殴ってごめん」と直接言えばいいんです。友達は覚えていないかもしれませんが、ちゃんと非を認めて謝ったことを評価してくれるはずです。
残念ながら直接言えない場合は、しっかりと反省して謝って、今度はしない/そのためにどうすればいいかを考えていけばいいんです。


辛い過去を、忘れる必要はありません。
忘れたくても、悲しいことに、脳は忘れてくれないようです。
時間が経って時期がきた時に、ちらっとフタをした臭いものを見て、「うーん臭い」とちゃんと感じとってあげる。
それだけで、過去の辛い経験は癒えていきます。
そして、整理されていきます。ふと楽になるんじゃないかなと思います。


出来るなら、何か間違いがあった時は、すぐに謝る勇気を持てるといいですよね。
なかなか難しいとは思いますが。
自分の非を認めることは、自分を蔑むことでも馬鹿にすることでも恥ずかしいことでもない。
自分の非を認める=非を認める、でしかありません。右辺には同じ言葉しか入りません。
そう言い聞かせるしか方法はないのかもしれません。


稚拙ながら、過去の整理についてのヒントを書きました。
また私がつまづいた時に、見れるように。人様に見せても恥ずかしくない言葉で表現しました。

海月

思考 | 15:14:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
はじめに。
はじめまして。空風海月と申します。

もしかして、私のような不器用な人間の生き様が、誰かの役に立ったりしないかな、なんて考え、
もう一度、ブログを始めました。
過去のブログはもうありませんが、忘れた訳ではありません。
過去は過去としてしか存在しません。
が、過去を過去として認めない限り、臭いものにフタをし続ける限り、臭いものは発酵し続け、自分を苦しめるようです。

それでは、これからよろしくお願いします。

海月


未分類 | 07:48:13 | トラックバック(0) | コメント(0)

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